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Column !
佐々木竹見 男の顔は履歴書だ!
佐々木竹見騎手引退に寄せて
Column by KKK&しんやま
12216番目の訪問者です  (2001.7.14up)

カネショウマリアとともに
男の顔にはその人の歴史が刻まれています。
この男の顔にも深い歴史が刻まれています。その名は佐々木竹見。
『鉄人』と呼ばれたその男もステッキを置く時がやって来ました。
彼の活躍を振り返ってみたいと思います。


佐々木竹見騎手 人と記録
時期 出来事
1941年 生誕(青森県上北郡)
1957年 中学卒業後、川崎・青野四郎厩舎に入門
1960年 八王子騎手教養所入所、同卒業
騎手免許取得
初騎乗(6頭立て6着)
初勝利(サチトップ)
1961年 初重賞制覇(ブルーバードC/ダイゴウイルソン)
1963年 右膝下骨折で5ヶ月間の療養
1964年 初のリーディングジョッキー(以降15年間連続)
結婚
帝王賞優勝(オリオンホース)
1965年 東京ダービー優勝(ヒガシユリ)
1966年 地方競馬初の1日6勝(浦和)
年間505勝で当時の世界記録達成
1967年 通算2000勝達成(コロナチカラ)
3年連続400勝以上の世界記録樹立
1969年 通算2925勝で須田茂騎手の記憶を破る
1970年 通算3000勝達成(ダイエース)
1973年 通算4000勝達成(ユキラークスオ)
1975年 東京大賞典優勝(スピードパーシア)
右肩脱臼で2ヶ月間療養
1978年 通算5000勝達成(エビタカラ)
右大腿骨骨折で1年間療養
1981年 左大腿骨・膝下の複雑骨折で1年間療養
1987年 通算6000勝達成(ケンタウロス)
農林水産大臣表彰
帝王賞・東京大賞典優勝(テツノカチドキ)
1989年 日本プロスポーツ大賞功労賞受賞
1990年 NARグランプリ特別功労賞受賞
右中指骨折で3ヶ月療養
1991年 通算6500勝達成(タケノブ)
1992年 農林水産大臣表彰
1995年 肋骨骨折で2ヶ月間療養
1996年 青野調教師死去に伴い金井弘司厩舎へ移動
腰部骨折で3ヶ月間療養
1997年 通算6900勝達成(リューヒョーリード)
1998年 通算7000勝達成(カネショウヤシマ)
月刊「ハロン」を参考にしました
ラストラン賞での竹見騎手
佐々木竹見 人と記録と
”鉄人”竹見騎手引退
 川崎競馬所属で「鉄人」として親しまれたベテラン騎手・佐々木竹見騎手(59歳)が7月8日・川崎競馬場での騎乗をもって騎手生活に幕を降ろされました。
彼は馬とともに駆け抜けた41年間の騎手生活において、通算勝利数世界歴代第6位の金字塔を打ち立てた日本が誇る超一流ジョッキーでした。
 通算騎乗回数39092回(内中央20回/海外12回)
 通算勝利数7153勝


 彼が畏敬の念を持って「鉄人」と呼ばれた所以はその生き様にありました。
 左記の年表を御覧頂いても分かるように彼の騎手生活は怪我との戦いでした。インタビューなどの記事を読むと竹見騎手は「怪我をして1年近くの長い休養が2回あった。あれはつらかった。」と語っておられます。
 しかし彼は幾多の挫折を不死鳥の様に這い上がり栄光の記録を勝ち取りました。身体のいたるところにボルトやプレートが今も埋め込まれているという話です。その彼の不屈の精神が彼を「鉄人」と呼ばせるに至ったわけです。

 竹見騎手は騎手引退後は地方競馬教育センターで後輩達の指導にあたられるとのことで、竹見騎手の様な名ファイターを地方競馬会に送り込んで来る事を期待しましょう。

12場を駆け抜けたラストランシリーズ!
 竹見騎手は昨年の11月に引退を表明をしましたが、その後引退に際して『佐々木竹見騎手ラストランシリーズ』と銘打って全国各地の競馬場でレース騎乗することを発表。各地でそのステッキ捌きを披露し地元ファンを喜ばせました。
 シリーズのスタートは1987年以来毎年「佐々木竹見騎手招待競走」を開催してきた高知競馬場からとなりました。

 シリーズ途中の4月23日船橋競馬場において竹見騎手が馬に蹴られて右大腿筋膜裂という負傷アクシデントが起こりシリーズが一時中断するハプニングがありました。竹見騎手の「このままムチを置きたくない!」という強い希望により免許更新を経て約1ヶ月後にシリーズ再開。
 その後は順調にスケジュールを消化して最後の地元川崎競馬場での引退式、そして最後の騎乗レースを迎えることとなりました。


『佐々木竹見ラストランシリーズ』 *主なレースと成績
3/19 高知 10R佐々木竹見騎手招待チャレンジカップ サラC1 マチカネライメイ5着(1番人気)
4/1 笠松 9R佐々木竹見&東海オールスタージョッキー サラB ファーストペイジ4着(1番人気)
4/10 名古屋 10R鉄人・佐々木竹見ファイナルカップ サラA サイエントロバリー2着(1番人気)
4/15 佐賀 8R佐々木竹見騎手引退記念 サラB1B2 タイセイウルフ3着(1番人気)
4/21 宇都宮 10R佐々木竹見騎手招待競走・パンジー特別 サラA2B1 タカラホマレ4着(2番人気)
4/23 船橋 11R佐々木竹見ラストランinフナバシ・緑風特別 サラB1下 ユキノジャパン9着(5番人気)
6/19 上山 9R佐々木竹見騎手引退記念第3戦 サラA3 アドマイヤイーグル5着(3番人気)
6/21 園田 9R佐々木竹見ラストランカップ アラ4歳上OP マキオフラッシュ1着(1番人気)
6/23 高崎 9R佐々木竹見騎手引退記念シリーズ・ファイナルカップ サラB1下 クラビバーチェ2着(3番人気)
6/25 大井 9R鉄人トゥインクルラストラン・スタージョッキー賞 サラC1 オーロラヒメ4着(1番人気)
7/1 三条 10RTeNY賞騎手招待競走・第1回スーパージョッキーカップ サラB2 ツインヤマト2着(2番人気)
7/4 川崎 10R佐々木竹見引退記念・ルビー特別 サラA3B1 スピーディドゥ2着(1番人気)
7/5 川崎 10R佐々木竹見引退記念・ふみづき特別 サラB3 サンビースター3着(2番人気)
7/6 川崎 9R佐々木竹見引退記念・銀河特別 サラ3歳上OP フドオー5着(2番人気)
7/7 川崎 9R佐々木竹見引退記念・七夕特別 サラB1B2 ヒカリチャン3着(1番人気)
7/8 川崎 10R佐々木竹見引退記念・ラストラン賞 サラB3 タイキブレイズ6着(1番人気)

7月8日・川崎競馬場 迎えたラストレース
 佐々木竹見騎手の最後のレース騎乗日を迎えました。この日は重賞開催日でもないのに多くの入場者で賑わっておりました。
 第7レース終了後、薄暮の中ウイナーズサークルにて引退式が行われました。馬主でもあられます歌手の北島三郎さんも駆けつけて「お互い年はとったけど、残る人生を頑張りましょう!」とこれからの人生にエールを送られました。竹見騎手も残された2レースで精一杯の騎乗をすることを約束しました。

 第9レースの盛夏特別(3歳)ではニイタカエイブルに騎乗して2番人気に支持されましたが結果は13着でした。
 そして泣いても笑っても最後の騎乗となる第10レース・ラストラン賞(B3選抜)を迎えます。竹見騎手はタイキブレイズに騎乗。無論。。。1番人気。本馬場入場は盛大な拍手で迎えられました。
 最後のパートナーとともに竹見騎手はスタートを切りました。タイキブレイズは追い込み脚質なので中団に控えます。あまり位置取りは良くありませんでした。
 それでも最後突っ込んでくるだろうと期待して固唾を飲んで見守っておりましたが。。。直線入って先団グループとはまだ離された位置で「これは届かないな」と見て取れました。それでも大外から伸びて見せ場を作り結果は6着。残念ながら有終の美は飾れませんでした。
 そして竹見騎手は馬とともにスタンド前で最後のファンへの御挨拶。手を上げて声援に応えました。暗闇の中でかすかに見えるその表情には満足げな笑みがこぼれていた様に見えました。


   by ぶらり、草競馬


佐々木竹見騎手引退に寄せて、彼とともに活躍した2頭の馬について
地方競馬を愛するお二方にそれぞれの記憶の線を辿って頂きました



岩より固く。。。、そして脆く
 ツキノイチバンと佐々木竹見 by KKK
ツキノイチバン
Photo by M.Tomoya
 佐々木竹見に唯一の騎手としての悔いがあるとすれば、それは恐らく「中央の重賞制覇」なのだろうかと思われる。長い騎手生活、中央挑戦のチャンスは幾らもあった。
 彼が手綱を取った馬で有名なのは、やはりテツノカチドキ。
 『大井にテツノカチドキがいた時代!』参照

 特にジャパンカップ出走をめぐる部分では、本人も事ある毎に話している通り、悔やんでも悔やみきれない部分が垣間見える。恐らく彼にとって生涯消し去ることはない記憶なのであろう。

 しかし、可能性という意味ならばむしろもう1頭の方が高く、そして強かったのではないだろうか?彼はこの馬については、公では全くと言っていいほど話していない。真意の程はわからないが、テツノカチドキ以上の想いがひょっとして心の中にあるのかも知れない。むろん真相は藪の中である。 ・・・そう、その馬こそがツキノイチバン。

 生まれながらにして慢性の脚部不安を抱えていた馬だった。満足に調教も行えない体。実質一本あるかないかの追い切りだけで、全てのレースを勝ち上がってきた。しかしその反動は大きく、レース後には必ず全身衰弱の様な症状が訪れたという。
 その為、一度として満足なローテーション・状態でレースを使えた事はなかった。ただ純粋に能力のみで勝ち抜いたのだから、その真の実力たるや恐ろしいものがある。

 会心のレースとして有名な『アフター5スター賞』。満足な仕上げではないとはいえ、デビュー以来一番ともいう出来だった。当時絶好調の上がり馬グローリータイガーを、直線気合を付けただけでほぼ馬なりのまま置き去りにしてしまった。
 バブル崩壊以降、低迷の一途を辿っていた当時の南関東競馬ではまさしく最後の砦であり、期待の星であった。もちろんその手綱を握っていたのは佐々木竹見その人である。


 □  □  □  □  □ 

 この時既に52歳。騎手生活も晩年にさしかかろうとしていた時期だった。昭和から平成に時代は移り、ニイタカローズやスルガスペイン、マティス、そしてダイタクジーニアスなどで重賞戦線を賑わすも、チャンピオン級の活躍馬とは巡り会う事はめっきりなくなっていた。もはや時代は石崎・的場の独壇場・・・。
 そんな彼が久しぶりに大物と呼べる優駿に出会ったのである。デビューしてからずっと新人の小安和也が手綱を握っていたが、B1準重賞のベイサイドカップを勝ち上がり連勝を8に伸ばし、一線級と対戦するにあたって大舞台の経験豊富な彼にその手綱が託される事となったのである。

 期待していたのは我々ファンも同じ。出走したレースの単勝配当のほぼ全てが110円か120円だった。初の重賞挑戦となった『金盃』では、当時最強クラスのブルーファミリーやハシルショウグンと対戦し、初めて単勝160円という配当をつけた。無敗の上がり馬とはいえ、B1を勝ち上がったばかりの身で軽ハンデ52キロ。全てが異例づくしといってもいいだろう。それだけでもこの馬に期待を寄せていたかがわかろうというもの。

 時は平成6年。地方・中央交流元年を翌年に控えていた。アフター5スター賞のあと、陣営からこんなコメントがあったという。「もしこの馬が負ける事があるとすれば、それはあの兄弟以外には考えられない」
 あの兄弟とは・・・当時中央競馬を席巻していた、ビワハヤヒデとナリタブライアンの事。翌年のGI安田記念挑戦を視野に入れ、このコメントが飛び出してきたのだ。
  *蛇足ながら、ツキノイチバンと同期だった当時浦和所属のトロットサンダーが翌年中央転厩し、その安田記念を平成8年に制している。遠からぬ縁を感じるのは私だけではあるまい。

 中央へ挑戦する為には南関東で頂点を極めなければならない。虚弱体質のために出走できるレースが限られているツキノイチバンだったが、それでも中央挑戦にはどうしても勝たねばならないレースが2つあった。それはグランドチャンピオン2000と東京大賞典である。
 「出れば勝てる」・・・確かに出走さえすれば勝てる馬だった。陣営はもちろん、手綱を握る佐々木竹見もその想いは同じ。ここまで11戦全勝、それも絶対能力だけで勝ち上がってきた。地方の代表権を獲得する為には、この2つはまさに勝たねばならないレースだった。
 陣営は熟慮の結果ツキノイチバンをグランドチャンピオン2000に送り込む事を決断する。出馬投票締切2時間前の事だったという。


 □  □  □  □  □ 

 平成6年10月27日、第5回『グランドチャンピオン2000』。「岩より固い鉄板」と、今なら裏なし馬単勝負と呼べそうな一戦。単勝1.1倍、不動の本命。この年川崎記念、サンタアニタトロフィーそして東京盃を制し、絶好調でここに臨んだサクラハイスピードを初め並み居る強豪を堂々押さえてのものである。
 しかし不安もあった。いつもの事とは言え、時計にすらならない軽過ぎる追い切り。それでも必ず勝つ・・・それがファンの出した結論だった。
 そして、運命のスタート。

 大外枠という事もありいつもより位置取りが少し後だった。行きっぷりが悪い訳ではないが、特に切れる脚を持っている訳でもないので、どこで仕掛けるのかだけを気にしていた。
 逃げるハナセールと追うサクラハイスピードのマッチレースだった。淀みない平均ペースでレースは進む。
 そして3コーナー入口でスパート、佐々木竹見の手が動く。行き脚がついたのか徐々に先頭との差が詰まっていく。歓声が一際大きくなった。誰しも直線で必ず伸びてくるものと、そして勝ち上がると思っていた。しかし・・・

 全ての視線は4コーナーに注がれる。もちろん場内騒然。いったい何が起こったのか?佐々木竹見が馬を止めて下馬している。
 全ての馬がゴールを駆け抜けた後、馬運車がコースを逆走し現場に向かう。重苦しい一瞬だった。
 左前脚開放骨折で予後不良。その場で薬殺処分となった。無限に広がろうとしていた夢は、その瞬間泡のように消えた。

 翌日の新聞にはその事実だけが小さく扱われただけ。「所詮メディアにとって地方競馬とはその程度の扱いなのか・・・」と怒りにも似た気持ちを覚えたものである。

 これ以来、無限の可能性を抱かせる馬は、南関東にまだ現れていない。メイセイオペラがフェブラリーSで中央GIを制するのは、これから5年後の事である。もちろん、芝で頂点を制した馬はまだいない。
 しかし、運命とはつくづく皮肉なものだと痛感した。佐々木竹見はこの年浦和所属の1頭の若駒に出会ったのだが、その馬と共にこの年の全日本3歳優駿を制し、翌年彼にとって最後のクラシックタイトルを勝ち取る事となろうとは・・・。



ツキノイチバン
 血統 父ミルジョージ 母エンゼルスキー(母の父マルゼンスキー)
 現役時所属 大井・福永二三雄厩舎
 生涯成績 12戦11勝
 主な勝鞍 金盃(94'大井) アフター5スター賞(94'大井)



 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


浦和競馬と竹見さんに関する覚え書き
 ヒカリルーファスと佐々木竹見 by しんやま
ヒカリルーファス
Photo by M.Tomoya
 平日に開催している南関東の競馬場は私の仕事柄出かけ易く、何より身近な浦和競馬にはとても愛着があります。
 ある予想屋と馴染みになり、時折「浦和で1日全レース勝った騎手がいる」との余談になります。現在、南関東では1日の騎乗制限がありますが、私の知りえない頃それはなかったようです。
 その騎手の名は佐々木竹見。7000勝を超える偉大な鉄人はこんな快挙をも成し遂げていたそうですよ。

 野球やサッカーのように、地元の活躍はうれしいものです。競馬も然り、浦和から活躍馬の誕生を願ってやまなかった私にとって、もうひとつの競馬の楽しみ方を教えてくれたのがヒカリルーファス号です。

 新馬戦を破格の時計で逃げ切ったルーファスは『全日本3歳優駿』へ駒を進めてきました。ここで佐々木竹見騎手を鞍上に迎えます。彼はご存知のとおり「竹見マジック」ともいわれる逃げ先行の名手で、この上ないコンビともいえるでしょう。持ち前のスピードから1番人気に推され見事快勝。
 続く地元の『ニューイヤーカップ』も楽勝し、クラシックに名乗りをあげました。

 1995年、この年は大井のジョージタイセイ、川崎(当時)のコンサートボーイといった有力候補と次の『黒潮盃』で対戦*この時は石崎騎手、休み明けと初ナイターからか初めて苦杯を舐めました。

 巻き返しを図った『羽田盃』では前走での敗戦、不利な外枠、2000メートルという距離が不安視されたが、竹見騎手に手綱が戻ったルーファスは好スタートから先手を取り、きちっとしたラップを刻んでそのままゴール前、コンサートボーイの猛追撃を振り切って見事な優勝。
 続く『東京ダービー』はジョージタイセイに雪辱されたが、けれんみのない逃げを見せ力を出し切りました。

 雄大な馬体から繰り出されるジワ〜っとした出足と非凡なスピード、佐々木竹見とのコンビで大歓声に包まれた大井競馬場での逃走劇。
 あれから6年、逃げ捲くって今年のクラシック戦線を沸かせたフレアリングマズルの逃げ脚にその姿をダブらせたのは私だけではないと勝手に思っています。

 あれ以来、すばらしいレースに出会うたびに私はいい年をしてまたも涙が・・・。
ルーファス、そして竹見さん、夢を感動をありがとう!



ヒカリルーファス
 血統 父ノーリユート 母ニレザクラ(母の父マルゼンスキー)
 現役時所属 浦和・牛房榮吉厩舎〜大井・高岩隆厩舎〜浦和・横山栄次郎厩舎〜川崎・松島久義厩舎〜上山・三宅直之厩舎
 生涯成績 23戦8勝
 主な勝鞍 全日本3歳優駿(94'川崎) ニューイヤーカップ(95'浦和)
 羽田盃(95'大井) 東京シティ盃(96'大井) かしわ記念(96'船橋)


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